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長岡の花火

 長岡の花火大会は、毎年8月2日と3日の二日に亘って、新潟県長岡市の信濃川の川原で行われます。1945年8月1日、日本の敗戦間近のことでしたが、長岡市は125機のB29爆撃機による空襲で、1486人の人々が亡くなり、市街地の8割が壊滅状態になるなど、大きな戦災を被りました。長岡祭り公式ウエブサイトで沿革も紹介されています。

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 長岡市では、終戦後の1946年(昭和21年)の8月1日に、慰霊と復興を祈願した「長岡復興祭」が行われ、それから毎年8月2日と3日に花火大会も行われるようになりました。
 しかし、長岡の花火の伝統はその日に始まったわけではなく、1879年(明治12年)に、八幡神社のお祭りで、350発の花火を上げたのが、その始まりだそうです。

 秋田の大曲、茨城県の霞ヶ浦で行われる花火大会と並んで、この長岡の火大会は、日本の三大花火大会の一つと称されています。いずれも東京から離れた「地方(田舎)」が大規模な花火を誇るのは、建物の密集から、東京では3尺玉(直径90cmの大花火)や、巨大なスターマインのような大規模花火は上げられないからかと思われます。
 大曲、霞ヶ浦の花火が花火師の技を競う競技花火であるのに対して、長岡の花火には競技性はなく、むしろメッセージ性の高い花火大会と言えます。毎年8月1日の10時30分、空爆が始まった時刻に、慰霊の花火、白一色の「白菊」が打ち上げ打ち上げられます。この写真は、大林宣彦監督「この空の花」の予告編に拠りました。

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 さて、今年、2016年は戦後,、1946年に始まった長岡花火の70周年記念に当たるというので、例年より更に盛大に行われ、県内外から100万人の観客が来た、ということです。プログラムに拠れば、最初の花火「白菊」の打ち上げは7時20分、最後の大型花火「米百俵」の打ち上げは、9時40分でした。

 その日を目指したわけではなかったのですが、帰省がちょうど長岡花火の二日目(8月3日)となりましたので、甥夫婦に誘われて、間近と「遠花火」の中間くらいの、打ち上げ場所の信濃河原が見えるくらいの所まで車で行き、椅子を持ち出して、お弁当を食べながら花火を楽しみました。

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 毎年この場所で花火見物をしているらしい何組かの人達もいました。「花火見物の穴場」と言えましょう。私が撮った花火の写真は全滅でしたので、以下にYou Tubeから、何枚かご紹介いたします。

 この日3日にも、最初に白一色の「数輪の白菊」が打ち上げられて、次に新潟県の代表となって甲子園に出場する「中越高校の検討を祈って」という花火に打ち上げられました。

 空襲だけではなく、2004年に起こった中越地震でも、長岡市は大きな災害を受けました。住宅、インフラなどの被害も大きく、近隣の小千谷市、十日町市など合わせて68人の死者を出しています。
 こうした地震の災害から頑張って立ち上がろうと、復興の祈りをこめて、2005年に揚げられたのが「フェニックス(不死鳥)」です。その年から毎年、長岡と、全国の災害地の復興と、世界平和を祈願して「フェニックス」が揚げられています。バックには平原綾香さんが歌う「ジュピター」が流れます。

 「フェニックス」の最初も、戦火や災害の犠牲となった人々の慰霊のための「白菊」でした。以下「フェニックス」は、You Tube にアップされた 1sttsubame さんの動画に拠りました。

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 そして色々なメッセージをもった花火が揚がります。例えば、長岡市は、日米開戦となった真珠湾攻撃の指揮を執った山本五十六元帥の出身地でもあるのですが、恩讐を越えてホノルル市と友好都市となり、ハワイのホノルル市沖で、長岡の花火師が花火を揚げたこともありました。ハワイとのさらなる友好を願い、アメリカ国旗を表す赤、青、白の三色の花火も揚がりました。

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 テーマの不死鳥、フェニックスが夜空を舞います。

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 世界平和を表すメッセージは、山下清という放浪の画家が言った「世界の爆弾に使われる火薬が花火に使われたらどんなにいいか」、というような言葉も花火にイメージしたそうです。

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 最後の大型花火は、「米百俵」というテーマの、尺玉100連発の花火でした。「米百俵」は、長岡にとって、特別な意味を持つ言葉です。
 幕末の戊辰戦争(の一部、北越戦争)で、長岡藩は幕府方に付き、敗北しました。そのために石高を減らされ、実収入の6割を失って、困窮を極めていたとき、支藩の三根山藩(みねやまはん)から、米百国の贈呈がありました。藩士らはこれで飢えから逃れられる、と大喜びをしましたが、大参事(藩の指導者・江戸時代の役職では家老)だった小林虎三郎は、「米百俵も食べてしまえば一時でなくなる、売って学校を建てて、教育費に充て、人材を養成すれば、明日の百俵になる」と反対を押し切って、その米を売却し、学校を建てました。長岡の人々にとって、「米百俵」は、「今の苦しみに耐えて、将来に備えよう」、という合い言葉なのです。
 花火大会では、「米百俵」を、尺玉100連発の花火で表現しました。

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 写真は、You Tube にアップされたCrazy Fujitukaさんの動画からいただきましたが、私は本当にもう写真が下手で、その魅力をお伝えすることができません。ご想像下さることをお願いするばかりです。

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 70周年記念の長岡花火は、このように行われましたが、この花火大会は今年も又、市外から見物に来た人々には美しい思い出になり、長岡の人々には、誇りと、明日から一年を生きる力とになったことと思います。

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