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『海賊とよばれた男』 下巻

 昨日の続きです。ここから『海賊とよばれた男』の下巻に移ります。

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 第三章「白秋」は、国内の石油会社からも、アメリカの大手石油会社からも目の敵にされた国岡商店が、豊富な石油の埋靇蔵量を持ちながら、イギリスの妨害によって他国に売る事ができないでいたイランに自社タンカー「日章丸」を秘密裏に送り、見事石油を買い付けてくる所が山場となります。その事によって、若い頃も瀬戸内海に伝馬船を漕ぎ回って軽油を売り「海賊」と呼ばれた国岡鐵造は、他国から「海賊」と呼ばれるようになりました。
 イランと契約を交わしても、イギリスの拿捕、イギリスによる撃沈を恐れてタンカーをよこさない各国との交渉で、疑心暗鬼になっているイランとの粘り強い交渉、肝の据わったタンカーの船長・新田の胸の空くような航海ぶりなど、手に汗握る読ませどころ満載の第3章です。
 1953年・昭和28年5月9日、無事川崎港に帰った「日章丸」を待ち受けていたのは、人々の歓呼の出迎えでした。

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 けれどもイランの石油を牛耳っていて、「日章丸」から帰路での石油奪還に失敗したイギリスの石油会社、アングロ・イラニアンは、石油の仮処分を申請し、訴訟に訴えました。
 弁護士に人を得て、国岡商店は裁判に完全勝利しました。初めて大英帝国のくびきから逃れ、日本と自由に取引することができたイラン政府は、国岡商店が最初に積み込んだガソリンを無償で提供するという声明を出して、万難を排してイランに石油を買い付けに来た国岡商店の勇気に報いました。下は記者会見に応じる国岡鐵造(出光佐三氏)です。

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 第四章「玄冬」は、その後の展開です。国岡商店はイランとの間に太いパイプを開設したかに見えましたが、3度目の積み荷を日本に運ぶ途中、1953年(昭和28年)8月19日に、イランではまさかのクーデターが起きていました。日本と良好な関係を築いたモサデク首相は失脚し、ザヘディ将軍が軍事政権を敷きました。後ろで操っていたのはアメリカのCIAです。
 イランの石油国営化が国際的に認められてくるにつれて、危機を覚えたイギリスが、アメリカと秘密裏に交渉し、40%の利権をアメリカに譲渡するという見返りで、イランにクーデターを起こさせたのでした。

 イランという石油購買基地を失った国岡商店は、社長国岡鐵造が、直々にアメリカに飛んで、バンク・オブ・アメリカから1千万ドルの借金をし、アメリカの大手石油会社ガルフから石油を買い入れ、国内に自前の製油所と建設することを決心しました。
 バンク・オブ・アメリカからは快諾を得ました。その年の国岡商店の資本金が2億円だったにもかかわらず、当時の1ドルは360円でしたから、日本円で36億円の融資をバンク・オブ・アメリカの副社長が、イギリスに戦いを挑んだ国岡の意気に感じて即決してくれたのです。
 CIAを暗躍させてイランにクーデターを起こさせたのもアメリカである反面、母国・日本の同業者や銀行からことごとく拒まれてきた国岡商店に、巨額の融資を快諾してくれたのもアメリカであるということに、国岡は、改めてアメリカの底知れないスケールの大きさを見た思いがしました。

 ガルフとも対等な立場で石油を買い付ける契約が結べました。それまで国岡がアメリカの石油会社との提携を忌避してきたのは、アメリカの石油会社と提携することによって、株式の多くの部分を譲渡させられ、アメリカの会社の子会社のような関係となってしまっていた日本の石油会社の轍を、絶対に踏みたくなかったかったからでした。
 
 製油所は、徳山に建設することにし、建設をアメリカ随一の技術を持つと言われる「ユニバーサル・オイル・プロダクト・コーポレーション(UOP)」に依頼しました。機能に優れ、かつ美しい製油所を、というのが国岡の条件でした。山陽本線に乗った乗客が見て楽しめる製油所を、と国岡は願ったのでした。
   
 UOPの技術者が2年は必要だと主張した製油所の建設を、8ヶ月で完成し、竣工式には、無償で創業資金を与えてくれた日田重太郎も招待して、恩に報いました。

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 しかし、日田は1961年(昭和36年)、国岡商店が創立50周年を祝って間もなく亡くなりました。

 国岡の戦いはなお続きます。1962年、政府は石油の安定的供給を計るため、という目的の下に、「石油業法」を発布し、石油連盟はそれを受け入れました。その裏の目的は、国岡商店に縛りを与える、ということでもありました。「天下り」と呼ばれる政府役人の受け入れを拒み、石油業界の他社と足並みを揃えようとしない国岡商店は、通産省にとっても石油業界にとっても、目障りな存在だったのです。しかし1963年(昭和38年)の寒波襲来に対応できなかったことや、1965年(昭和40年)の海運組合のストで石油が払底したことなどから、石油業法は現実に機能しえない法律である、ということが明白になってきました。
 時に80歳を越えていた国岡鐵造は、政府や業界と粘り強く戦い、1966年(昭和41年)、国民を味方に付けることで、終に石油業法と石油の生産調整を撤廃させることに成功しました。時の通産大臣は三木武夫でした。

 その後も1973年(昭和48年)のオイルショックなど、困難な出来事を乗り越え、1981年(昭和56年)、国岡鐵造は、戦いに次ぐ戦いであった95歳の天寿を全うしました。

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 前述のように、国岡商店(出光興産)には、出勤簿も定年も馘首もありませんでした。社員こそが、我が社の一番の財産である、と社長(店主)の国岡鐵造(出光佐三)は常々言っていたそうです。国岡は、常に会社の利益より、日本の為に、ということを第一目標に考えていました。神戸高商時代に、校長先生から折に触れ教えられた「士魂商才」を、自身のバックボーンとして生きました。

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 第三代社長の東雲忠司(石田正実)は39年の社員時代を振り返って、一度も社長から言われたことのなかった言葉は、「儲(もう)けよ」だった、と、感慨深く述べています。
 実は私の主人の父は、出光興産の社員だったのですが、会社には毎日国旗と社旗が翻っていて、社旗は、国旗より一段低く掲揚されていたそうです。

 昨日と同じく、『海賊と呼ばれた男』(講談社文庫)を除く写真は、You Tube 「昭和偉人伝 出光佐三 - 14.06.18」 (https://www.youtube.com/watch?v=KOKeeZIskrU)に拠りました。

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